2023.12.08
≪鴫山城の沿革≫
鴫山城は中世に南会津に君臨した長沼氏の本拠でした。 戦国時代末に長沼氏は伊達政宗に属しますが、豊臣秀吉は会津を蒲生氏郷・上杉景勝領とし、鴫山城は若松城(鶴ヶ城)の有力支城となりました。 江戸時代初めに廃城となり、今日に至っています。
≪鴫山城が築かれた田島の地について≫
今市(栃木県日光市)と会津若松を結ぶ会津五街道のうちのひとつ、下野街道(会津西街道)が通る土地。関東と接する南山口の拠点となった場所です。 南会津町田島に構える鴫山城の周りには、西から北に阿賀川が流れ、東に水無川があり、川に囲まれた丘陵北斜面に山城があります。 城下町は北に面して造られ、山麗には屋敷が構えられていました。
(愛宕山)
(愛宕山山頂から西を望む)
(田島の街中はその昔宿場町で、街道沿いに直角に屋敷地が配置され、きれいに区画された街並みは今も残っている)
≪鴫山城について≫
◆お城の種類
城は大きく二種類に大別されます。 ・平城(ひらじろ)・・・平地や町の中に建てられ、天守閣を持つ ・山城(やまじろ)・・・岩山や急な崖など自然の地形を活かした設計が多い
鴫山城は山城で、田島地区市街地の南側にそびえる愛宕山(標高749m)の地形を活かして築かれています。
◆鴫山城の構成
「惣構えを備えた根小屋式山城」
惣構えとは、城主や家臣団の住居等の重要施設を守るため、土塁や空堀で囲うこと。 鴫山城では、愛宕山北側の山頂から東西に延びる稜線を利用し土塁を築き、正面部を土塁で囲っています。
鴫山城は、愛宕山山頂部の山城域と、麓の本城域を中心とした城郭域、さらに大門前方の根小屋地区の外曲輪から成り立ちます。 山城部分は南北朝争乱期から室町中期、麓の城郭は、戦国時代と桃山時代の築城技術が駆使されています。 各時代の遺構、なかでも中世から近世への過渡期の技術が各所に残り、全国でも貴重な城跡です。
(旧南会津郡役所内の模型)
鴫山城の建物は、大手大門を入った内側の御平庭、上千畳、下千畳の地に建てられていました。見張りの櫓は、山頂の愛宕神社の地に建てられていたようです。山頂から130m下った主水曲輪には石垣があり、そこには二重か三重の櫓が建てられていた可能性があります。
◆鴫山城の歴史
―長沼氏の築城―
源頼朝が征夷大将軍であった頃(1192-1199年)に、鎌倉幕府樹立に大きく貢献していた下野国(栃木県)の長沼宗政(有力豪族小山氏の一族)は全国12か所に所領を与えられました。
その所領のひとつに田島(南会津町田島地区)を含めた陸奥国南山(おおむね現在の南会津郡域)がありました。
当時長沼氏の本拠は下野国二宮町にありましたが、南北朝争乱期(14世紀後半)に急激に勢力を失い田島に拠を移したと考えられています。 これが鴫山城のはじまりだと伝わっています。 七代・義秀は、田島古町に居館を、愛宕山に鴫山城を築き、徐々に勢力を回復。 応永23年(1417)、上杉禅秀が起こした反乱において室町幕府鎌倉公方からの命を受け出陣し勝利を収めます。その後長沼庄の一部を奪還し、南山には戻りませんでした。
義秀の転出後、鴫山城の城主は五代・秀行の兄弟、長沼宗実の子孫が勤め、天正18年(1590)長沼弥七郎盛秀まで続きます。
芦名・山内・河原田氏と共に会津四家と呼ばれていた長沼氏は、芦名氏と鴫山城の攻防を繰り返していました。 一時期芦名氏の軍門に降りますが、伊達政宗の黒川入城(会津若松城・鶴ヶ城)と共にこれに属し、伊南・河原田氏攻めにも協力。やがて伊達藩の家老職となりました。
弥七郎盛秀の子どもたちは、伊達政宗に従い仙台へ行き、仙台藩士として活躍したとされています。
(長沼氏の菩提寺・田島興国山徳昌寺)
鴫山城は、山頂の愛宕神社を中心に雛段状に削平地があります。 これは日本の城郭史より、南北朝時代の山城の特色を示しているそうで、長沼氏は約500年前に鴫山城の原型を築いたものと考えられます。
史料や記録に鴫山城・南山城の記述がみられるのは長禄3年(1459)からで、室町時代中頃には、山城としての立派な構えが長沼氏によって築かれていることが分かります。
―蒲生・上杉時代の鴫山城―
天正18年(1590)、会津に蒲生氏郷が入国し長沼氏の支配を終えた鴫山城。 蒲生氏は鴫山城城代に小倉作左衛門を配し南会津の要としました。 この頃、鴫山城正面の大門が造られたとされています。
慶長3年(1598)、会津は上杉景勝の領国となり、鴫山城城代には直江兼続の弟・大国但馬守実頼を任命しました。 上杉氏は日本の覇権を握るため徳川家康と対立し、家康の会津攻めに備えるため鴫山城を増強。 城郭東端の「比高二重土塁」を造るなどの大規模改修を行いました。
(東外壁塁「比高二重土塁」が麓の八幡神社まで続く)
関ケ原の合戦で上杉氏は米沢へ移り、会津藩へは蒲生秀行が入封、鴫山城には小倉作左衛門が再び入城します。 その後蒲生主計助や蒲生内記が入城しますが、寛永4年(1627)一国一城令により鴫山城は廃城。
約300年の歴史に幕を閉じます。
◆鴫山城の構造
①侍屋敷跡(さむらいやしきあと) 町からお城の大門(④)に通じる道の両側は、領主の側近である武士たちの屋敷が並んでいました。 鴫山城跡の麓は現在「根小屋」という字名ですが「寝小屋」とも書き、村の侍が交替でお城の守備についていたことから寝小屋と称したとも言われています。
②侍屋敷跡(さむらいやしきあと) 大門に向かって左にある階段状の削平地(平に削られている場所)も侍屋敷とされていました。発掘調査では礎石、中世陶器、鉄製品などの遺物が発見され、内城を直接防備する家臣団の屋敷であったことが確認されました。
③空堀(からぼり) お城の内部と外部を分ける深さ4m、幅14mほどの堀で長柄槍の戦闘を想定した構造。 堀は東外壁塁(⑫)よりぐーっと西に延びていて、大門のところで南北に食い違い、歪みがつくられています。 横矢掛かり(外敵を側面から攻撃する仕掛け)もつくられていて、内部をぐるっと囲み南の山根まで伸びています。
④大門跡(だいもんあと) 大門はお城の正面にあり追手門とも呼ばれます。 中世の山城は普通石垣を持たないので、この大門は中世から近世城郭への移り変わりの時期の姿と考えられます。
⑤御平庭(おんひらにわ) 大門を過ぎて左側に広がる広大な削平地で、鴫山城では三の丸にあたります。 御庭とは、城内の役所があった場所。
⑥御平庭石組井戸(おんひらにわいしぐみいど) 御平庭(⑤)にある、石で組まれた井戸。掘り込んだ内部を切石で積み上げたもので、縦1m・横0.7mと小ぶりですが、丸井戸ではなく長方形であることが特徴。 御平庭は上方と土塁で分かれていたため、水源の確保のため嗽清水(うがいしみず)からの伏流水脈に掘ったものです。
⑦上千畳・下千畳(かみせんじょう・しもせんじょう) 千畳とは広い場所の意で、上千畳は鴫山城の本丸、下千畳は二の丸にあたります。 ここがお城の中核部分として政庁があり、ここに城主(城代)や家臣が詰めて政務にあたっていたと考えられています。
⑧嗽清水(うがいしみず) 上千畳(⑦)の東端にあり、鴫山城の生命線として「水の手曲輪」を形成していました。
⑨上千畳 城主(城代)の居館があった所。この場所には少なくとも三棟以上の書院建築があったことが発掘調査により分かっています。侍屋敷(①)や大門跡(④)と共に長沼氏以降の蒲生・上杉氏時代のものと考えられています。
⑩下千畳 本丸としての上千畳(⑦)を守護するための二次的な政治・軍事的な役割のあった場所。 大門跡(④)脇から登る上千畳(⑦)への通路でもありました。
⑪御花畑(おはなばたけ) 薬草や籠城戦に備えての食用野菜等の栽培が行われていたと考えられています。 鴫山城の中核部がいかに計画的に区画されていたかが分かる遺構のひとつです。
⑫東外壁塁(ひがしがいへきるい) 山城の囲いには、敵が侵入しにくい構造とするため土塁が設けられていました。鴫山城でも愛宕山山頂を起点として東西に包み込むような外壁の土塁が存在しました。 特に東側部分、御茶屋場(⑬)から、麓にある八幡神社までは「比高二重土塁(高さの違う二つの土塁)」の構造を持つ見事な遺構が残存しています。
※土塁(どるい):敵の侵入を防ぐため土を堤防のように盛ったもの
⑬御茶屋場(おちゃやば) 山城の最前線基地で、詰の城の大手口(正面入口)に相当すると思われ、見晴らしのよい曲輪。 東南を守備する東尾根の曲輪と、北尾根の曲輪の合流する場所に位置し、主水曲輪とともに敵の侵入をここで食い止める重要な曲輪であったと推定されています。
※詰の城(つめのしろ):戦闘で最終的な拠点となる場所 ※曲輪(くるわ):山の斜面や尾根に造成した平坦地
⑭主水曲輪(もんどくるわ) 詰の城を構成する重要な曲輪。 小さな削平地が階段状に続き、北側には野面石積みが見られ、前面には虎口が設けられています。 初期の鴫山城は、山頂部分と中腹の主水曲輪辺りが城域であったと考えられています。
※野面石積み(のづらいしづみ):自然石の平らな面を表面に揃えて積む工法 ※虎口(こぐち):防御機能を持った出入口
⑮愛宕神社本殿(あたごじんじゃほんでん) 詰の城。中世時代の本丸にあたります。 他の館・砦からの狼煙をこの山頂で受けていました。 愛宕神社山頂部と核として、岩山と尾根を利用した築城方法は南北朝争乱期の岩座信仰と結びつきます。 これらが鴫山城成立期の姿を表しているとされています。 本殿には仁王門・仁王像が鎮座していますが、こちらは江戸時代後期の作とされ、作風から歴史的資料として価値が高いものとなっています。
2015年6月15日に落雷による火災があり、上述の本殿は焼失してしまいました。 仁王門はそのまま残存し、本殿の現在の姿はこちらです。
⑯土門跡(つちもんあと) 近世のものよりも小さめの桝形門。 外枡形形式(外側に出っ張っている形)で、搦手門(城郭のいくつか設置される門)に相当します。 近世枡形への過渡期の姿を示す構造として貴重な跡。
※枡形門(ますがたもん):四角い形の出入口で敵を誘い込んで攻撃しやすい形になっているもの
⑰矢倉台跡(やぐらだいあと) 鴫山城の最も弱点とされる土門を守備し、丸山出城を監視するために設けられたもの。 西外壁塁が尾根の鞍部中段に位置し、沢を隔てた西川中沢台出城と連携して、土門から敵の侵入を阻止しました。
※出城(でじろ):根城から出して要地に設ける小規模のお城 ※鞍部(あんぶ):山と山の間の低くなった所
⑱外郭遺構(がいかくいこう) すっぽりと城郭と侍屋敷街と一部の集落を包み込んでしまう外郭の存在を惣構(そうがまえ)といい、戦国時代の城郭では非常に珍しいものです。 合同庁舎の駐車場横および裏手高台にわたり残っています。
◆鴫山城築城の変遷
(1)鴫山城初期 戦いが起こった時に逃げ延びたりする場所「詰の城」として使用された山頂付近の主水曲輪には、小さめの削平地が階段状に続き、南北朝時代(1336-1392)の特徴が見られます。 「塔寺八幡宮長帳」には、確認できる最古のものとして長禄3年(1459)の記述があります。 これを上記の山頂付近の形状と合わせて考えると、約600年前に七代・長沼義秀によって築城が始まったと考えられています。
(2)長沼氏が去った後の鴫山城 長沼氏が伊達政宗に従い仙台へ転出後、天正18年(1590)蒲生氏郷(城代・小倉作左衛門)により、鴫山城正面の石垣「大門」が造られました。
(3)戦国末期の鴫山城 徳川家康の軍勢を迎え撃つため、上杉景勝(城代・大国実頼)は、城郭東端に見られる「比高二重土塁」などの大規模改修を行いました。
◆鴫山城の名前の由来
こんな言い伝えが残っているそうです ―――
むかーしむかし、鴫山城主長沼氏と会津の強力な領主蘆名氏との戦いの時の話です。 一羽の鴫(しぎ)という鳥が、敵陣の旗をクチバシにくわえて、長沼氏の陣地の中へバサバサっと飛んできました。 鴫が飛んできたあと、長沼氏は見事に戦に勝つことができたのだそうです。 そんな縁起のいい「鴫」の字を使って、「鴫山城」と名付けましたとさ。
▶シギ(チドリ目シギ科の渡り鳥) 沼地や畑などで小動物を食べる中型の鳥 ・・・その昔、鴫山城の麓一帯は田んぼであったという土地柄から、鴫がいたことも頷けます。
▶若松城→鶴ヶ城、姫路城→白鷺城 などがあることから、鶴などの鳥は縁起のいいものとされていたので、名前として使用されたと考えられています。
(※田島城・南山城と呼ばれていたとの記述も残っています)
◆愛宕神社の大切な役割
一般に、愛宕信仰の御神体・本地仏には「火の神・戦いの神」の性格があるとされています。
火伏せや防火の神としての信仰と、戦勝祈願として勝軍地蔵への信仰が厚かったことから、 戦が常の時代にも武士階級から厚く信仰されていて、この鴫山城にも勧請されたのだと考えられています。
◆鴫山城 戦の様子
残された資料から、下記のような戦の様子であったことが分かっています。
―――頂上付近にある削平地(主水曲輪)の目的は
愛宕山の切り立った地形を活かし、上から石をぶつけるだけで相当な戦法となりました。 この削平地には攻撃用の石が常備され、戦いに備えたと考えられています。現在も、中腹以上には不自然に石が転がっているのを見ることが出来ます。
―――逆茂木(さかもぎ)
逆茂木とは、枝の張った樹木を外側に向けて斜めに立てて並べたもの。 先を尖らした杭を並べる乱杭と共に、中世には臨時の防御用施設として戦場などで盛んにつくられました。
以前は旧南会津郡役所でこの逆茂木の展示を行っていましたが、現在は保存の観点から原寸大の写真が展示されています。
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会津田島は今から約600年前に、町の中央にそびえる愛宕山に鴫山城が築かれ、奥会津の拠点となりました。 お城を中心として、戦国時代頃から集落ができはじめ、やがて城下町が成立します。 今から約400年前の江戸時代初めからは、南会津を統括する田島陣屋がお城の麓に置かれ、陣屋町と下野街道の宿場町として栄えるようになりました。 また明治になると、南会津郡役所が置かれ、政治・経済・文化の中心となりました。 このように田島が古くから南会津地方の中心として栄えてきたのは、鴫山城が愛宕山に築かれたことによります。 鴫山城は田島の原点であり、南会津の歴史を象徴する文化遺産といえます。
ぜひこちらに訪れて、南会津がたどってきた歴史を感じてみてください。
※参考文献 「南会津のあゆみ」「田島町史」「史跡 鴫山城」「鴫山城跡」「奥会津博物館文化財専門員 渡部康人氏資料・南会津町役場 渡部陣一氏資料」「会津古城研究会会長 石田明夫氏資料」
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≪鴫山城の沿革≫
鴫山城は中世に南会津に君臨した長沼氏の本拠でした。
戦国時代末に長沼氏は伊達政宗に属しますが、豊臣秀吉は会津を蒲生氏郷・上杉景勝領とし、鴫山城は若松城(鶴ヶ城)の有力支城となりました。
江戸時代初めに廃城となり、今日に至っています。
≪鴫山城が築かれた田島の地について≫
今市(栃木県日光市)と会津若松を結ぶ会津五街道のうちのひとつ、下野街道(会津西街道)が通る土地。関東と接する南山口の拠点となった場所です。
南会津町田島に構える鴫山城の周りには、西から北に阿賀川が流れ、東に水無川があり、川に囲まれた丘陵北斜面に山城があります。
城下町は北に面して造られ、山麗には屋敷が構えられていました。
(愛宕山)
(愛宕山山頂から西を望む)
(田島の街中はその昔宿場町で、街道沿いに直角に屋敷地が配置され、きれいに区画された街並みは今も残っている)
≪鴫山城について≫
◆お城の種類
城は大きく二種類に大別されます。
・平城(ひらじろ)・・・平地や町の中に建てられ、天守閣を持つ
・山城(やまじろ)・・・岩山や急な崖など自然の地形を活かした設計が多い
鴫山城は山城で、田島地区市街地の南側にそびえる愛宕山(標高749m)の地形を活かして築かれています。
◆鴫山城の構成
「惣構えを備えた根小屋式山城」
惣構えとは、城主や家臣団の住居等の重要施設を守るため、土塁や空堀で囲うこと。
鴫山城では、愛宕山北側の山頂から東西に延びる稜線を利用し土塁を築き、正面部を土塁で囲っています。
鴫山城は、愛宕山山頂部の山城域と、麓の本城域を中心とした城郭域、さらに大門前方の根小屋地区の外曲輪から成り立ちます。
山城部分は南北朝争乱期から室町中期、麓の城郭は、戦国時代と桃山時代の築城技術が駆使されています。
各時代の遺構、なかでも中世から近世への過渡期の技術が各所に残り、全国でも貴重な城跡です。
(旧南会津郡役所内の模型)
鴫山城の建物は、大手大門を入った内側の御平庭、上千畳、下千畳の地に建てられていました。見張りの櫓は、山頂の愛宕神社の地に建てられていたようです。山頂から130m下った主水曲輪には石垣があり、そこには二重か三重の櫓が建てられていた可能性があります。
◆鴫山城の歴史
―長沼氏の築城―
源頼朝が征夷大将軍であった頃(1192-1199年)に、鎌倉幕府樹立に大きく貢献していた下野国(栃木県)の長沼宗政(有力豪族小山氏の一族)は全国12か所に所領を与えられました。
その所領のひとつに田島(南会津町田島地区)を含めた陸奥国南山(おおむね現在の南会津郡域)がありました。
当時長沼氏の本拠は下野国二宮町にありましたが、南北朝争乱期(14世紀後半)に急激に勢力を失い田島に拠を移したと考えられています。
これが鴫山城のはじまりだと伝わっています。
七代・義秀は、田島古町に居館を、愛宕山に鴫山城を築き、徐々に勢力を回復。
応永23年(1417)、上杉禅秀が起こした反乱において室町幕府鎌倉公方からの命を受け出陣し勝利を収めます。その後長沼庄の一部を奪還し、南山には戻りませんでした。
義秀の転出後、鴫山城の城主は五代・秀行の兄弟、長沼宗実の子孫が勤め、天正18年(1590)長沼弥七郎盛秀まで続きます。
芦名・山内・河原田氏と共に会津四家と呼ばれていた長沼氏は、芦名氏と鴫山城の攻防を繰り返していました。
一時期芦名氏の軍門に降りますが、伊達政宗の黒川入城(会津若松城・鶴ヶ城)と共にこれに属し、伊南・河原田氏攻めにも協力。やがて伊達藩の家老職となりました。
弥七郎盛秀の子どもたちは、伊達政宗に従い仙台へ行き、仙台藩士として活躍したとされています。
(長沼氏の菩提寺・田島興国山徳昌寺)
鴫山城は、山頂の愛宕神社を中心に雛段状に削平地があります。
これは日本の城郭史より、南北朝時代の山城の特色を示しているそうで、長沼氏は約500年前に鴫山城の原型を築いたものと考えられます。
史料や記録に鴫山城・南山城の記述がみられるのは長禄3年(1459)からで、室町時代中頃には、山城としての立派な構えが長沼氏によって築かれていることが分かります。
―蒲生・上杉時代の鴫山城―
天正18年(1590)、会津に蒲生氏郷が入国し長沼氏の支配を終えた鴫山城。
蒲生氏は鴫山城城代に小倉作左衛門を配し南会津の要としました。
この頃、鴫山城正面の大門が造られたとされています。
慶長3年(1598)、会津は上杉景勝の領国となり、鴫山城城代には直江兼続の弟・大国但馬守実頼を任命しました。
上杉氏は日本の覇権を握るため徳川家康と対立し、家康の会津攻めに備えるため鴫山城を増強。 城郭東端の「比高二重土塁」を造るなどの大規模改修を行いました。
(東外壁塁「比高二重土塁」が麓の八幡神社まで続く)
関ケ原の合戦で上杉氏は米沢へ移り、会津藩へは蒲生秀行が入封、鴫山城には小倉作左衛門が再び入城します。
その後蒲生主計助や蒲生内記が入城しますが、寛永4年(1627)一国一城令により鴫山城は廃城。
約300年の歴史に幕を閉じます。
◆鴫山城の構造
①侍屋敷跡(さむらいやしきあと)
町からお城の大門(④)に通じる道の両側は、領主の側近である武士たちの屋敷が並んでいました。
鴫山城跡の麓は現在「根小屋」という字名ですが「寝小屋」とも書き、村の侍が交替でお城の守備についていたことから寝小屋と称したとも言われています。
②侍屋敷跡(さむらいやしきあと)
大門に向かって左にある階段状の削平地(平に削られている場所)も侍屋敷とされていました。発掘調査では礎石、中世陶器、鉄製品などの遺物が発見され、内城を直接防備する家臣団の屋敷であったことが確認されました。
③空堀(からぼり)
お城の内部と外部を分ける深さ4m、幅14mほどの堀で長柄槍の戦闘を想定した構造。
堀は東外壁塁(⑫)よりぐーっと西に延びていて、大門のところで南北に食い違い、歪みがつくられています。
横矢掛かり(外敵を側面から攻撃する仕掛け)もつくられていて、内部をぐるっと囲み南の山根まで伸びています。
④大門跡(だいもんあと)
大門はお城の正面にあり追手門とも呼ばれます。
中世の山城は普通石垣を持たないので、この大門は中世から近世城郭への移り変わりの時期の姿と考えられます。
⑤御平庭(おんひらにわ)
大門を過ぎて左側に広がる広大な削平地で、鴫山城では三の丸にあたります。
御庭とは、城内の役所があった場所。
⑥御平庭石組井戸(おんひらにわいしぐみいど)
御平庭(⑤)にある、石で組まれた井戸。掘り込んだ内部を切石で積み上げたもので、縦1m・横0.7mと小ぶりですが、丸井戸ではなく長方形であることが特徴。
御平庭は上方と土塁で分かれていたため、水源の確保のため嗽清水(うがいしみず)からの伏流水脈に掘ったものです。
⑦上千畳・下千畳(かみせんじょう・しもせんじょう)
千畳とは広い場所の意で、上千畳は鴫山城の本丸、下千畳は二の丸にあたります。
ここがお城の中核部分として政庁があり、ここに城主(城代)や家臣が詰めて政務にあたっていたと考えられています。
⑧嗽清水(うがいしみず)
上千畳(⑦)の東端にあり、鴫山城の生命線として「水の手曲輪」を形成していました。
⑨上千畳
城主(城代)の居館があった所。この場所には少なくとも三棟以上の書院建築があったことが発掘調査により分かっています。侍屋敷(①)や大門跡(④)と共に長沼氏以降の蒲生・上杉氏時代のものと考えられています。
⑩下千畳
本丸としての上千畳(⑦)を守護するための二次的な政治・軍事的な役割のあった場所。
大門跡(④)脇から登る上千畳(⑦)への通路でもありました。
⑪御花畑(おはなばたけ)
薬草や籠城戦に備えての食用野菜等の栽培が行われていたと考えられています。
鴫山城の中核部がいかに計画的に区画されていたかが分かる遺構のひとつです。
⑫東外壁塁(ひがしがいへきるい)
山城の囲いには、敵が侵入しにくい構造とするため土塁が設けられていました。鴫山城でも愛宕山山頂を起点として東西に包み込むような外壁の土塁が存在しました。
特に東側部分、御茶屋場(⑬)から、麓にある八幡神社までは「比高二重土塁(高さの違う二つの土塁)」の構造を持つ見事な遺構が残存しています。
※土塁(どるい):敵の侵入を防ぐため土を堤防のように盛ったもの
⑬御茶屋場(おちゃやば)
山城の最前線基地で、詰の城の大手口(正面入口)に相当すると思われ、見晴らしのよい曲輪。
東南を守備する東尾根の曲輪と、北尾根の曲輪の合流する場所に位置し、主水曲輪とともに敵の侵入をここで食い止める重要な曲輪であったと推定されています。
※詰の城(つめのしろ):戦闘で最終的な拠点となる場所
※曲輪(くるわ):山の斜面や尾根に造成した平坦地
⑭主水曲輪(もんどくるわ)
詰の城を構成する重要な曲輪。
小さな削平地が階段状に続き、北側には野面石積みが見られ、前面には虎口が設けられています。
初期の鴫山城は、山頂部分と中腹の主水曲輪辺りが城域であったと考えられています。
※野面石積み(のづらいしづみ):自然石の平らな面を表面に揃えて積む工法
※虎口(こぐち):防御機能を持った出入口
⑮愛宕神社本殿(あたごじんじゃほんでん)
詰の城。中世時代の本丸にあたります。
他の館・砦からの狼煙をこの山頂で受けていました。
愛宕神社山頂部と核として、岩山と尾根を利用した築城方法は南北朝争乱期の岩座信仰と結びつきます。
これらが鴫山城成立期の姿を表しているとされています。
本殿には仁王門・仁王像が鎮座していますが、こちらは江戸時代後期の作とされ、作風から歴史的資料として価値が高いものとなっています。
2015年6月15日に落雷による火災があり、上述の本殿は焼失してしまいました。
仁王門はそのまま残存し、本殿の現在の姿はこちらです。
⑯土門跡(つちもんあと)
近世のものよりも小さめの桝形門。 外枡形形式(外側に出っ張っている形)で、搦手門(城郭のいくつか設置される門)に相当します。
近世枡形への過渡期の姿を示す構造として貴重な跡。
※枡形門(ますがたもん):四角い形の出入口で敵を誘い込んで攻撃しやすい形になっているもの
⑰矢倉台跡(やぐらだいあと)
鴫山城の最も弱点とされる土門を守備し、丸山出城を監視するために設けられたもの。
西外壁塁が尾根の鞍部中段に位置し、沢を隔てた西川中沢台出城と連携して、土門から敵の侵入を阻止しました。
※出城(でじろ):根城から出して要地に設ける小規模のお城
※鞍部(あんぶ):山と山の間の低くなった所
⑱外郭遺構(がいかくいこう)
すっぽりと城郭と侍屋敷街と一部の集落を包み込んでしまう外郭の存在を惣構(そうがまえ)といい、戦国時代の城郭では非常に珍しいものです。
合同庁舎の駐車場横および裏手高台にわたり残っています。
◆鴫山城築城の変遷
(1)鴫山城初期
戦いが起こった時に逃げ延びたりする場所「詰の城」として使用された山頂付近の主水曲輪には、小さめの削平地が階段状に続き、南北朝時代(1336-1392)の特徴が見られます。
「塔寺八幡宮長帳」には、確認できる最古のものとして長禄3年(1459)の記述があります。
これを上記の山頂付近の形状と合わせて考えると、約600年前に七代・長沼義秀によって築城が始まったと考えられています。
(2)長沼氏が去った後の鴫山城
長沼氏が伊達政宗に従い仙台へ転出後、天正18年(1590)蒲生氏郷(城代・小倉作左衛門)により、鴫山城正面の石垣「大門」が造られました。
(3)戦国末期の鴫山城
徳川家康の軍勢を迎え撃つため、上杉景勝(城代・大国実頼)は、城郭東端に見られる「比高二重土塁」などの大規模改修を行いました。
◆鴫山城の名前の由来
こんな言い伝えが残っているそうです ―――
むかーしむかし、鴫山城主長沼氏と会津の強力な領主蘆名氏との戦いの時の話です。
一羽の鴫(しぎ)という鳥が、敵陣の旗をクチバシにくわえて、長沼氏の陣地の中へバサバサっと飛んできました。
鴫が飛んできたあと、長沼氏は見事に戦に勝つことができたのだそうです。
そんな縁起のいい「鴫」の字を使って、「鴫山城」と名付けましたとさ。
▶シギ(チドリ目シギ科の渡り鳥) 沼地や畑などで小動物を食べる中型の鳥
・・・その昔、鴫山城の麓一帯は田んぼであったという土地柄から、鴫がいたことも頷けます。
▶若松城→鶴ヶ城、姫路城→白鷺城 などがあることから、鶴などの鳥は縁起のいいものとされていたので、名前として使用されたと考えられています。
(※田島城・南山城と呼ばれていたとの記述も残っています)
◆愛宕神社の大切な役割
一般に、愛宕信仰の御神体・本地仏には「火の神・戦いの神」の性格があるとされています。
火伏せや防火の神としての信仰と、戦勝祈願として勝軍地蔵への信仰が厚かったことから、
戦が常の時代にも武士階級から厚く信仰されていて、この鴫山城にも勧請されたのだと考えられています。
◆鴫山城 戦の様子
残された資料から、下記のような戦の様子であったことが分かっています。
―――頂上付近にある削平地(主水曲輪)の目的は
愛宕山の切り立った地形を活かし、上から石をぶつけるだけで相当な戦法となりました。
この削平地には攻撃用の石が常備され、戦いに備えたと考えられています。現在も、中腹以上には不自然に石が転がっているのを見ることが出来ます。
―――逆茂木(さかもぎ)
逆茂木とは、枝の張った樹木を外側に向けて斜めに立てて並べたもの。
先を尖らした杭を並べる乱杭と共に、中世には臨時の防御用施設として戦場などで盛んにつくられました。
以前は旧南会津郡役所でこの逆茂木の展示を行っていましたが、現在は保存の観点から原寸大の写真が展示されています。
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会津田島は今から約600年前に、町の中央にそびえる愛宕山に鴫山城が築かれ、奥会津の拠点となりました。
お城を中心として、戦国時代頃から集落ができはじめ、やがて城下町が成立します。
今から約400年前の江戸時代初めからは、南会津を統括する田島陣屋がお城の麓に置かれ、陣屋町と下野街道の宿場町として栄えるようになりました。
また明治になると、南会津郡役所が置かれ、政治・経済・文化の中心となりました。
このように田島が古くから南会津地方の中心として栄えてきたのは、鴫山城が愛宕山に築かれたことによります。
鴫山城は田島の原点であり、南会津の歴史を象徴する文化遺産といえます。
ぜひこちらに訪れて、南会津がたどってきた歴史を感じてみてください。
※参考文献 「南会津のあゆみ」「田島町史」「史跡 鴫山城」「鴫山城跡」「奥会津博物館文化財専門員 渡部康人氏資料・南会津町役場 渡部陣一氏資料」「会津古城研究会会長 石田明夫氏資料」